6/18(土)ほぼ日刊イトイ新聞より

 

・ぼくには、ろくでもないけれど好きな人が、
 けっこうたくさんいる。
 それはそれは、ろくでもなかったり、
 どうしょうもないくらい馬鹿野郎だったり、
 見え透いたずるさを持っていたり、
 あきれるほどすけべだったり、
 そういう者共のことを指折り数えると、
 いくらでも思い出せて、眠れなくなるくらいだ。

 ろくでもないけれど好きな人がいるというのは、
 どういうことなのだろうか。

・こういうことなのではないか、と思った。
 みんな「なにか、くれた人」なのだ。
 おもしろいことを、よく話したとか、
 いい歌を歌ってくれたとか、
 かっこいい姿をキラリンっと見せてくれたとか、
 迷惑な場面に巻きこんで、奇妙な時間をくれたとか、
 じぶんの代わりにちょいと悪いことをしてくれたとか、
 うれしそうにぼくの話を聞いてくれたとか、
 ぼくの気まぐれにつきあってくれたとか、
 みんな「なにか、くれた人」なのだ。
 なかには、言い争いをしたまま、死んじまった人もいる。
 現実に会ったこともないのに、
 いっぱい「なにか、くれた人」だっている。
 
 『徒然草』の作家が、「ものくるる友」はいいね、と、
 書いているのを知ったときは、
 ずいぶん露骨なことを、と思ったものだけど、
 ほんとうに「なにもくれない人」よりも、
 「なにか、くれた人」のほうがいいのだとぼくも思う。
 ぼく自身が、正直なところ、そう思っているのだから、
 ぼくのほうも、相手の「なにか、くれた人」でありたい。

 ろくでもない人そのままで、
 「なにか、くれた人」になっていられるのがいい。
 衰弱して「なにか、くれた人」になれないと思うと、
 いい人になろうとしたり、まちがってない人になったり、
 立派そうな人のふりをしたりするものだ。
 このごろどうも、いい人にさせられそうになってるので、
 秘密の「エロ・ツイッター」とかやろうと思ってる。 
 
今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
読んでくれる人は、けっこう「なにか、くれた人」です。

 

 

 

イトイさんの今日のことば、すごく好き